阪神・淡路大震災後に開設された「こころのケアセンター」の活動|The history,mission,and service:The establishment of Disaster Victim Assistance Program(DVAP)
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こころのケアセンター設置の経緯
平成7年4月になると、医療的ニーズに主に応えていた救護所は、一定の役割を果たしたという認識があり、終息に向かっていました。しかし、避難所の被災者が次々に仮設住宅へと移転しはじめ、被災者が抱えるPTSDなどの問題については、長期的な取組が必要という認識も、現場には生まれていました。そのため、保健所を中心として、長期的なメンタルヘルスケアを行うシステムを作るべきとの意見も強かったのですが、財源の問題などもあって、実現しませんでした。
ちょうどその頃、阪神・淡路大震災復興基金が整備されることが決定され、どのような事業を行うかそのメニューを検討していた時期でもありました。そこで、基金を財源として、保健所とは独立した新たな組織、「こころのケアセンター」設置のアイディアが浮上しました。組織と運営
運営については、医療だけでなく、保健関係者も多数所属していた「兵庫県精神保健協会」(当時)が行ない、その組織を強化するため、県の精神保健担当課から精神保健福祉相談員が出向し、全体のコーディネート役を担うこととなりました。スタッフは公募され、臨床心理士、精神保健福祉相談員、看護師など約40名が新たに配置されました。
予算は、活動経費、人件費などを主体として基金から約2億円、これに被災した精神障害者への支援と位置づけられるグループホームや小規模作業所の運営助成約1億円を加え、年間約3億円が兵庫県精神保健協会に交付されることとなりました。事業期間は平成7年6月から平成12年3月までの約5年間とされ、合計15億円が交付されました。これは、日本の自然災害後のメンタルヘルス活動としては、全く前例のない事業でした。活動方針
開設当時から運営に携わった担当者によると、発足当時の活動状況は次のようでした。
「奥尻、雲仙などの例があるとはいえ、全く前例のないことだけに、開設からしばらくの間は手探りの状態で、それこそ“考えながら走る”という有様でした。当センターのアイデンティティは何か、スタッフをどう配置するかなどの問題が山積でしたが、とにかくスタッフ間で“何が出来るか、何が必要か”を話し合うところから始めました。」
- こうした議論の中から、以下のような活動方針が立てられました。
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- 行政とボランティアの隙間を埋める。
- 問題発見型かつパイロット・スタディ的精神。
- フットワークの軽さと早期実行。
- 専門性を高めつつ、専門性を出し過ぎないサポート。
- 過去の反省や実績を踏まえ、将来に備える、将来へ提言できるものを残す。
これらの活動方針の決定には、サンフランシスコ(1988)、ロサンゼルス(1994)などアメリカ西海岸で相次いでいた大地震後のメンタルヘルス活動の情報が、大きな参考とされました。
運営の特徴
全体の組織と5年間の主な事業展開から、組織運営上の特徴を挙げると、次に述べる2点に集約されるでしょう。
事業展開の柔軟性
第1に挙げられるのが運営の柔軟性です。5年間の期間限定事業を効率的に進めるためには、方向性を適宜修正していくことが必要でした。たとえば、地域拠点である地域こころのケアセンターは当初、激震地の行政単位にあわせて設置されており、神戸市においては、沿海の東灘区、灘区、中央区、兵庫区、長田区、須磨区の6区の保健所内に開設されていました。しかし、被災者が入居することになった仮設住宅の多くは、激震地外につくられており、実際のニーズとの齟齬が生じていました。そこで、数ヶ月遅れで西区、北区に拠点を開きました。これは、行政組織が当初の計画を、なかなか修正しないことと比較すれば、柔軟な対応であったといえるでしょう。
柔軟性を示す別の例は、域外への活動展開です。阪神・淡路大震災の被災者の中には、被災地外に移り住んだ人たちも多くいました。上述したように、仮設住宅は被災地の中でも被害が少なく土地を確保しやすかった郊外に多く建設されましたが、建設の進捗には限界があり、これを解決するために被災地外にも多くの仮設住宅が建設されました。例えば、兵庫県内では加古川市に約1200戸、姫路市に約600戸がつくられました。また、大阪府の豊中市、大阪市淀川区、此花区、西淀川区、泉佐野市、八尾市にもつくられました。
こうした地域でのメンタルヘルスケアについての現地の保健所の取り組みには温度差が見られました。このため、こころのケアセンターは、これらの仮設住宅への支援を行うこととし、まず加古川市において関係機関との調整を行いました。その結果、市内最大の仮設群(1000戸)であった東加古川仮設住宅に、センター本部から週1回の頻度でスタッフを派遣することとなりました。
また、大阪府下の仮設住宅に対する支援として、府立こころの健康総合センター(精神保健福祉センター)の協力を得て、専従スタッフ2名を配置しました。そして泉佐野市(りんくうタウン;200戸)、八尾市(志紀;290戸)、大阪市淀川区(淀川十八条;334戸)の3カ所の仮設住宅をフィールドとして、それぞれが閉鎖されるまで活動しました。一般に行政サービスはそのキャッチメントエリアを越えて提供されることはないので、被災地外まで活動を拡大したこの一連の動きは、こころのケアセンターの出自が半官半民であったことが、大きく貢献した部分といえるでしょう。
地域性の重視
こころのケアセンターの運営の特徴として、次に挙げられるのは地域性の重視ということです。これは組織運営と、実際の活動展開の両面にさまざまな差違をもたらしました。
まず運営面では、当初すべての地域センターの所長を各地域の保健所長が、経理事務および実務指導には保健所の管理職が従事し、いわば保健所の臨時部門に近い形で活動を始めました。その後、この体制は県保健所設置地域(西宮市、芦屋市、宝塚市、伊丹市、津名郡)と、それ以外の地域(神戸市各区および尼崎市)とでは、異なる組織に改編されます。前者では、所長に各地域の精神科医療機関の医師が就任しました。また、事務所も保健所外に設置し、経理や事務手続きは本部の直接管理下に置かれました。
一方、神戸市は各保健所(後に保健部と改称)が運営に継続して関与し、保健所長と管理職が所長、経理事務、実務指導を行いました。さらに神戸市は、9カ所の地域センターを統括する役割を、市役所の精神保健担当課(健康福祉部健康増進課)が担っており、事務手続きの一切と本部からの連絡は、まず市役所、それから各保健所という行政的な流れに、忠実に沿って行われることとなりました。また、尼崎市では市役所と事務所が設置された中央保健所の担当管理職が、運営を担うこととなりました。
このように運営システムには地域によって違いがありましたが、これには精神保健行政のシステムの違いが大きく影響していました。また、それぞれのアイデンティティと独立性の主張が、こうした複雑な組織運営に影響したことは間違いないでしょう。活動モデル
災害後のメンタルヘルスケアの必要性がいくら強調されようとも、一般住民にとって抵抗感がなくなるものではありません。ことに生活の立て直しが主な課題となり、多くの二次的ストレスに曝される復興期にあっては、メンタルヘルスケアをそれだけで提供しようとしても、ほとんど受け入れられることはありません。また、少ないマンパワーで効率的にサービスを提供するためには対象を絞る必要も出てきます。さらに、方向性を探り、施策の展開を論じるために有効な調査研究にも取り組む必要があります。これらの点を踏まえて、こころのケアセンターでは次のような点を、活動の指針としました。
- 被災程度も大きく、生活再建の遅れた仮設住宅住民を主な対象とする。
- アウトリーチの重視。
- 保健や福祉を担当する他の機関やボランティアと可能な限り連携する。
- メンタルヘルスを強調せず、専門性を掲げすぎない。
- コンサルテーションの重視。
- 有効な調査研究の実施と、それをもとに施策提言を行う。
こうした復興期におけるサービス提供上の工夫は、過去の災害時に行われた精神保健活動でも重要な点として、指摘されているところであり、国情や文化の違いなどによらず、普遍的に必要な戦略といえるのかも知れません。
発展性
こころのケアセンターでは多くの調査研究に着手し、施策の提言に活用しました。この成果から、兵庫県の外郭団体である長寿社会研究機構に加えられる形で、平成12年4月に「こころのケア研究所」が開設されました。
阪神・淡路大震災後には、災害被災者へのメンタルヘルスケアの必要性が広く認識されました。こころのケアセンターの活動は、他の災害や事件などが生じる度に参照され、地元の保健所などからの問い合わせが相次ぎました。それは国内だけでなく、トルコ地震や台湾地震など海外で発生した大災害でも同様であり、両国政府は担当者を視察に派遣しました。
こころのケアセンターの活動は、以前はほとんど関心の持たれなかった精神保健上の問題に光を当てたものでした。同時に、グループホームや作業所の運営助成を行いました。それらはすべて、こころのケアセンター閉鎖後も存続されており、地域内の精神障害者の社会復帰施策の展開に寄与しました。 -
The Making of “Disaster Victim Assistance Program”
The activities of these station have come to an end by April 1995, fulfilling the role of medical service providers by responding to various needs of evacuees.
The majority of evacuees at shelters have moved into temporary housing and there was an increasing need to deal with issues which required long-term effort such as treatment of PTSD. Some strongly insisted that the public health center should take a lead to establish a mental health care system to manage long-term effects of the disaster. However, it was not achievable due to restricted resources.
At the same time, the Great Hanshin-Awaji Earthquake Reconstruction Fund was ready to be formed, and the contents of projects were under discussion. The idea of establishing a “Disaster Victim Assistance Program (DVAP)”, which was independent from local public health centers, emerged. It was determined that the source of revenue for the program would be from the special foundation.Organization and administration
The center was run primarily by the Hyogo Mental Health Association, and to support their function, advisors specialized in psychiatric health were sent on loan. They committed to work as coordinators. Counselor positions were publicly advertised, including some 40 professionals consisting of clinical psychologists, psychiatric social workers, and nurses.
The annual budget for the center was 300 million JPY; the break down of the total was:
・Operating costs and employment costs: 200million JPY,
・Running costs for group homes and working space for mentally disabled evacuees: 100 million JPY.
The project period was from June 1995 to March 2000, which made total of 1.5 billion JPY was provided for over 5 years. This was an unprecedented project in terms of Japanese post-disaster mental health activities.Service policy and strategies
“Experiences and knowledge from the Okushiri disaster and Mt. Unzen-Fugen disaster did not provide us sufficient guidelines since our activities were exceptional in nature. For some time after the opening, it was as if we were feeling our way in the dark. We just ran the center and made decisions as we went. We had to determine our own roles as well as the roles of our staff members. We began discussing what we could do, what was to be done and so on.”
- Based on our intense discussions, following policies were laid out:
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- To fill the gap between government and volunteer organizations.
- To discover problems using pilot studies.
- To stay light-footed and focus on early interventions.
- To improve expertise but not impose it: that is, to give unpretentious services
- To learn from past mistakes and experiences in order to prepare for and make informative suggestions for future disasters.
Having decided on this policy, the organization found that information from the aftermath of the San Francisco (1988) and Los Angeles (1994) earthquakes proved useful.
Features in our services
Based on the first five years of the services and projects, our services can be summarized as follows:
Flexibility in projects
First, our center has been flexible enough to modify our projects on community based activities over first 5 years. Constant modification in aim and direction of the services was required to a certain extent to effectively run the projects within a given period of time. For instance, each branch of the center was located according to the administrative districts. In Kobe City, there were 6 branch centers in each local public health center in Higashinada, Nada, Chuo, Hyogo, Nagata, and Suma. These locations suffered the most severe damage, based on residence information at the time of earthquake. However, most evacuees relocated to places where the effects and damage of the earthquake were relatively mild. This created a gap between the needs of evacuees and service providers. For some months after, we were able to locate additional branches in Nishi and Kita. Considering the typical bureaucracy of government-administered organizations, this modification was very flexible.
Another example of flexibility is in the area of extended services. Many evacuees moved out of disaster affected areas such as adjacent cities or prefectures. Temporary housing was primarily built in areas where damage was minimal, and it was convenient and practical to start construction. Nonetheless there were space and labor limitations due to the great number of evacuees and the urgency of their needs. In order to resolve this issue, much temporary housing was built outside of the disaster affected areas: within Hyogo Prefecture, Kakogawa City(approximately 1200 households) and Himeji City(approximately 600 households), and in Osaka Prefecture, Toyonaka City, Osaka City, Izumisano City, and Yao City.
Prior to our involvement, there had been some location-related variation and divergence in services. The DVAP decided to offer our mental health services to these areas outside the disaster affected areas. Prior to the initiation of our services at these areas, our center had meetings to adjust what services we offered and how we offered them. As a result, we were to send our staff once a week to Higashi-Kakogawa temporary housing which had the largest population within Kakogawa City. We also placed two of our staff in the Osaka Prefecture with cooperation of Osaka Prefectual Mental Health Center. They assisted evacuees in Izumisano City (Rinku-town; 200 households), Yao City (Shiki area; 290 households), Osaka City Yodogawa Ward (Yodogawa-juhachijo; 334 households), a total of 3 temporary housing districts, until the day they were closed down.
Activity model
The significance of post-disaster mental health services can not be overemphasized. It is important for lay audiences to remove their reluctance to recognize its necessity. If this significance is not understood, then during the recovery period in which survivors are exposed to secondary stressors such as restoration of living environment, mental health service would not be readily accepted by those in need. In order to deliver services efficiently with limited manpower, the target population needs to be identified. We need to examine in what way and how we provide services to develop policies and measures. On the basis of above points, our center has articulated a policy as follows:
- Target those whose damage is greater and restoration is delayed.
- Regard out-reaches as important.Network with other organizations and NPOs which deal with health and welfare.
- Underplay“mental health”and avoid overemphasis on expertise.
- Focus on consultation work, and
- Conduct informative research and make proposals based on the research results.
These fully considered policies during restoration period have been useful in various post disaster activities, and can be considered universal strategies regardless of political situations or cultures.
Transformation
The DVAP had conducted considerable research and provided information to comply with government measures. Consequently, it was renamed “Institute for Mental Health Care” as a part of Hyogo Research Institute for Ageless Society, which is an affiliate organization of Hyogo Prefecture in April 2000.
Since the Great Hanshin-Awaji Earthquake (1995), mental health needs for disaster survivors have been broadly recognized. Every time disasters or other matters occur, our activities have been referenced. Our organization is not limited to Japan: after earthquake occurred in Taiwan and Turkey, both government sent teams of professionals to our institution in order to learn from our experiences.
We feel our accomplishments are twofold: we have illuminated the importance of post disaster mental health, which had never interested professionals. Simultaneously, we have assisted group home and working space for mentally disabled people. These continuing efforts have helped these people integrate into their communities more easily.